島袋敬一・
The Bio1ogical Society of Okinawa、 Twenty-five Years Ago
Kei-ichi SHIMABUKU*
沖縄生物学会誌が創刊されたのが1964年、それから数えて今年は25年で四半世紀の歴史を経過したことになる。これを記念して特集を組むことを評議員会と事務局とで企画された。そこで、会員の一人として記念事業をお手伝いしたい、と事務局に申し出たところ、お前はその当時学会再建にいろいろ関わっていたのだから、その頃のことを書けとの命を受けた。やぶ蛇であった。しかし勇を鼓して、今の内に書き残しておかねばますます忘却の彼方に没し去るであろうことを、駄文に草して責めを免れることにしたい。
それにしても、二昔半ともなれぼ記録は散逸し記憶も定かでないことが多く、思い違いによって多くの方々に御迷惑をおかけするかも知れない。予め御了承をお願いするしだいである。また、事実の記述に誤りがあれば、後に残ることでもあり、当時の関係者各位に指摘をお願いする。機会を得て訂正を図りたい。
当時の琉大文理学部生物学科を1958年に卒業した人達で組織する「あだん会」と称する団体がある。当初15名の会員で構成され、多士済々で談論風発、意気旺んな集まりであった。琉大生物卒で最初の二桁台の人数を有する同期のクラスである。職に就いて確か5年を経た彼等は職場でも新進の域を脱しつつあり、生物学科の卒業生として何かなさねばとの気概に燃えていた。彼等はそれを大会の開催に向け、彼等が慕う生物学科の新納義馬助教授(現教育学部教授)にその実現を迫ったのであった。沖縄生物学会誌創刊の端緒は実にここにあったのである。このことを知る人は少ないと思われる。まさに今日の沖縄生物学会にとって特筆すべき新しい歴史の幕開けがなされようとしていた。その頃、あだん会で論議されたことや、その間の事情の詳細はその会員の一人、新本洋允氏(現コザ高校教頭)がこの特集号のために執筆される。
あだん会の強い要望を受けた新納助教授がこれを時代の要請と受けとめ、如何にしてこれを実現し軌道にのせるか、もっとも腐心したところは、こういう気運を単にあだん会の世代のみに止めず、世代を超えて周辺にそれとなく浸透させていくという点にあった。これに関して、新納助教授は適切な組織化とみごとな統括力によって実現に着実な歩みを始めた。決意を固めた後の行動は迅速であった。琉大生物学科の第1回卒業生である新納助教授は同窓の同僚、後輩に呼び掛け、あだん会のみでなく琉大生物卒の各世代にわたる構成で会を組織し、委員長として縦横に敏腕を振った。この会は公式には連絡委員会と称したが、実質は準備委員会の性格をもつものであった。委員は11名(1名は農学部卒)よりなり、その氏名は本誌1号の本会記事に列記されている。この委員会は、その本会記事でみると1964年1月18日の第1回以来6月29日までの短時日に5回に及び、交通費の支弁も無しで精力的に会則原案や投稿規定原案の作成に審議を尽くし、会の基盤の確立に懸命であった。事務局担当委員の非公式の小委員会はほとんど連日のように開かれていた。これは1週間後の1月25日の第2回連絡委員会で趣意書を関係分野の人々に発送することを決め、直ちに行動したことからもうかがえよう。連絡委員達の活動はこれだけに止まらず、個人的にも会員募集に手分けして、いう迄もなく手弁当で各地を勧誘して回った。これには委員以外の人達の揚力も多大であった。
一方、資金をどうするかも大きな、というよりも、もっとも困難な問題であった。まったくの零からの出発である。それで以て再建大会当日までに学会誌の創刊を出そうというのだから、連絡委員長の覚悟の程が分かろう。実はこれにはそれなりの背景があった。沖縄農業研究会がその機関誌「沖縄農業」を1962年設立総会当目に受付で会員に配布するという先例があったのである。農学の人達にできて我々にできない筈がない、と。しかし、こと農業に関しては様々な団体があり、そこからの資金の援助も期待できた。生物学に関してそのような期待はほとんど望むべくもなかった。援助して貰えそうなところに多少強引でも当ってみるより方法は考えられなかった。かくして設立趣意書を持って連絡委員達の足を棒にしての企業参りが始まったのである。
ところが連絡委員達がいきなり企業に当っても成否はおぼつかない。そこで準備委員にまつり上げた11人の先生方(1号本会記事)に登場願うことになった。先生方に電話で予め企業に連絡して戴くという手段をとり、その後に連絡委員が企業に説明に参上して協力をお願いして回った。委員の中には個人的なコネを利用する人もあり、普段あまり頭を下げることに慣れてない連絡委員長始め委員達には多少の苦痛を伴うものであったが、これで印刷費の約半分が確保でき、大会当日徴収の会費とで支払いの目途がついたのであった。委員以外に会員にも協力が得られたのは幸いだった。取り付く島もなく、断られたことが多かった中で、当時快く協力して下さった関係商杜各位には振り返って感謝あるのみであり、沖縄生物学会が今日あるのは全くそのお陰に他ならず、ますますの御繁栄を願うものである。資金集めに回った委員の中には厚かましくも、営利団体でもない沖縄教職員会(沖教組の前身)にまで押し掛けて行き金一封を頂戴した者もあった。恐らく屋良朝苗会長のポケットから出たものであったろう。本誌に広告を掲載して下さった企業の中には引き続き賛助会員に名を連ねておられる数杜があり、誠に有り難いことである。
事を始めるには困難と模索が伴う。会誌の創刊も例に漏れなかった。しかし、原稿を集めるにはさほどの苦労はなかった。篠原士郎先生はすぐに応じて下さったし、加藤陸奥雄先生には池原貞雄先生を介してお願いすることができた。玉城松栄氏(故人、元琉大助教授、当時は普天間高校教諭)は満を持したように、琉大在学中より続けていたカヤツリグサ科研究の成果を投稿してきた。それが投稿第1号だったように思う。図はきれいに墨入れされ精密でみごとなものだった。彼はあだん会の一員でもあった。
間題の一つは表紙のレイアウトと記事の体裁であった。表紙に関しては琉大文理学部美術工芸科の学生だった山里直子嬢(現、海勢頭豊氏夫人)から色々助言を頂いた。本誌の表紙のレイアウトはそれをずっと踏襲していることからも、その助言は適切であったといえよう。記事の体裁については「植物学雑誌」と岩波の雑誌「科学」に範をとり、その折衷によることにした。それでどうやら形は整った。そこまではよかった。ところが、無知な編集幹事がそれぞれの論文・記事の最初のぺ一ジの標題の上、偶数ぺ一ジ欄上に本誌の略称をBio.
Mag. Okinawaとやらかしてしまったのである。範をとった植物学雑誌の略称のBot. Mag. Tokyoに倣ったつもりがそうはなってなかった。彼はBot-any、Biol-ogyのように、-の前の子音で切り母音以下を略するという原則を知らなかったのである。この誤りは堂々と2号まで続く。その彼とは誰あろう、この筆者であった。このような誤りは今では学部学生でもやらないであろう。これを親切に指摘下さったのは旧知の東京水産大教授だった妹尾(せのお)次郎博士である。教授は招聴で来学、講義された折、本会に金一封を寄付して下さった。感謝の念で今でも賀状を差し上げ御壮健を願っている。
大会は7月19日に決まった。間に合わすべく編集の仕事も大車輪だった。原稿を印刷所へ入れてから約1月で完成させねばならず、著者校正の余裕はなかった。印刷所に詰めていて1編でも組版ができればせかしてゲラを刷り、夜業で校正して翌朝印刷所に届け、次のゲラを受け取って帰るということを繰り返し、3校を終った時はボーッとなった。印刷所との往復には編集幹事の一人、玉城松栄氏がバイクを運転し、免許を持ってなかった筆者が背中に乗り、大典寺近くR.1(現、58号線)沿いの星印刷に通った。彼はその頃、定時制高校勤務で昼問は琉大非常勤講師、筆者にはこれが大変助かった。刷り上がったときは二人ともホッとしたというより、虚脱状態だったことを覚えている。第1回大会で会長に推挙された池原貞雄先生は、それまでは準備委員長に就いておられたが、先生が直接陣頭に立って指揮されたという記憶はほとんどない。これには一つ理由があったように思う。準備委員会の先生方には失礼ながら、会議を開いて一々事を決めて戴くよりも、若い連絡委員の面々には長老はまつり上げていた方が何かと都合がよく、事は早く運ぶだろうとの思惑があったように筆者は考えている。それは本会記事にも「連絡委員の役割は準備委員の手を煩わさず、準備委員の助言のもとに実際の仕事をすすめていく」と記しているからである。しかし、回想してみて失礼を申し上げるけれども、とくに小生などは池原先生の掌の中で踊っていただけに過ぎなかったと鈍感にも今にしてやっと気が付き、さすがは先生"無為にして化す"とはまさにこのことだなと、一人赤面するのである。
話は前後するが、最後に生物学会再建と記した関係で沖縄生物学会の前身と考えられる「琉球生物学会」にも触れなけれぼならない。筆者はその学会に入会してなかったので詳細は知らない。手許の資料はごく僅かで、筆者が保管したままになっている「琉球生物学会之印」と、首里キャンパス時代に初島住彦先生が下さったガリ版刷りの会報(誌名は失念)があるだげだが、それについては千原移転以来、未開の梱包に入っているらしく、みつからないでいる。本誌「発刊のことば」の池原準備委員長は……戦後沖縄生物学会が設立され、……年一回の総会さえ開催できない状態になってしまった。……と記しておられるが、これは印鑑からすると琉球生物学会のことと考えられる。この貴重な歴史的遺産の印鑑がどうして筆者が保管するようになったか、その経緯をどうしても思い出せない。また、……機関誌の発行も、ついに実現するにいたらなかった。……ともあるが、ガリ版刷りながら機関誌が出たのは確かな事実である。おぼろげであるが、内容は我謝栄彦氏(元農業試験場長、甘藷比謝川1号を育種した)の論説があったように思う。あるいは、大会を傍聴した時の講演だったかも知れない。大会の場所は志喜屋図書館で、筆者は中二階の手摺にもたれて下の大閲覧室で行われていた講演を聴いた。発表者や演題などはほとんど記憶にない。時期は図書館が竣工した1955年12月末から火災があった1956年9月の間だった。
以上を書き上げたところで、池原貞雄先生が最近「琉球生物学会」の住所のゴムスタンプを池原清子さんに託されたことを知った。また、山里清会長の手許から「沖縄生物学会」のガリ刷りの機関誌「沖縄の生物」創刊号(1949)がでてきた。これらの資料から、これまで述べたことを訂正せねばならない個所がある。
往時の「沖縄生物学会」は我謝栄彦氏が会長となり、農業試験場および琉球政席機関の方々および高校関係者で組織され、「琉球生物学会」とは全くの別組織であった。筆者はこの二つの組織を同一だと混同していたのである。現在の沖縄生物学会の前身である「琉球生物学会」は故島袋俊一先生が会長に就いておられ、大学関係者によって組織されていたようだし、その機関誌は出版されてなかった。しかし、志喜屋図書館で開催されたのは琉球生物学会の大会であったのは確かである。
*〒903-01沖縄県中頭郡西原町千原1 琉球大学理学部生物学教室
*Department of Biology、University of the Ryukyus, Nishihara, 0kinawa 903-01,
Japan